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茶道具を撫でるという作法

私が茶道家として所属しているのは、「石州流大口派」です。 最近、他流派の方が我々の点前を見ると、総じて「作法がきれい、丁寧」と褒めていただくことが多いです。 色々珍しいのか、点前を披露した後に質問攻めにあうこともあるのですが、多くの方に注目されるのが、手指を使って「道具を撫でる」という独特の行為です。 一般的にどの流派でも、点前中に茶道具を袱紗(ハンカチのようなもの)で拭い、ほこりを払って清めることは共通しています。しかし、私たちはこれに加えて、特に濃茶席を設ける際に、茶器(抹茶粉を入れる容器)や柄杓(茶釜からお湯をすくう杓)を指の腹で払い、さらに清める作法を含めています。 作法の由来と精神 この作法は、石州流の流祖である片桐石州が「茶席に持ち込むものは特に清潔であるべき」という精神を重んじていたことに由来します。 戦国大名であった石州にとって、自分が点てた茶に少しでも穢れが含まれ、それが毒となって万が一にでも仕える将軍にとって仇となれば手打ち、武士として腹を切る覚悟を求められるほど、一つ一つの茶席が命がけだったのかもしれません。鋭い刀の切っ先のごとく、この「清廉潔白」さは当流の作法の隅々にいきわたっています。 また、石州流と一口に言っても、そこには枝葉のような流派が多く存在しています。このうち、私が所属する「大口派」では、創始者・大口樵翁が香道を嗜んでいたことにちなみ、点前に香道の作法を取り入れ、優雅な手指の動きを取り入れて発展させたと聞いています。 道具との友情 この作法は清潔さを重んじるためのものですが、私自身は茶道具の「頭を撫でる」ような気持ちで行っています。それは、子供を愛おしむことにも似ています。変な話ですが、お点前さんも茶道具の一部という思いを持っているからこそ、物言わぬ道具たちとの信頼関係を深めることで、よりおいしい茶を点てられるよう協力してもらうという意識を持っています。 不思議なことに、このような気持ちで茶道具を撫でていると、茶の味がまろやかになるように感じるのです。道具たちに敬 意を払いながら点てた茶が、心を通わせる一杯としてお客様のもとに届いてくれるよう願っています。

狭い茶室から、幸せの波を作る

茶道を通して、人々に幸せを届けることは私の大切な目標の一つです。これは茶室という狭い空間から始まりますが、その影響は思いのほか遠くまで広がるものだと信じています。 幸せの波及効果を示す調査 ハーバード大学が行った「1人の幸せがどのくらい遠くまで波及するのか」を調べた研究をご存知でしょうか。この調査では、1万2000人以上を対象に30年以上追跡した結果、次のような驚くべき事実が明らかになっています。 個人が幸せでいると、「直接の知り合い」の幸福度が平均15%上昇する。 さらに「友達の友達」の幸福度は平均10%、「友達の友達の友達」の幸福度は6%上昇する。 つまり、一人の幸せがその周囲へ連鎖的に伝わり、結果として多くの人々の幸福度が高まるのです。 茶室という特別な空間 茶室は、通常4畳半という狭い空間で構成されています。一度に大人数を招く「大寄せ」の場合を除き、茶席はこじんまりとした空間で客と向き合う場です。この限られた空間の中で、いかに特別な時間を提供するかが私たち茶人の役目と言えます。 小さな幸せを持ち帰る 私の願いは、この4畳半の茶室で客に「何か幸せだったな」と思ってもらうこと。点てた茶が美味しかった、作法が美しかった、茶室の雰囲気が新鮮だった──理由は何でも良いのです。一つでも幸せだったと思える体験を持ち帰ってもらえればと思っています。 幸せの伝播 その小さな幸せが、ご家族や友人、周囲の方々へと伝わると考えると、茶道の意義はさらに深まります。直接茶道が広まるわけではありませんが、客が持ち帰った「なんか幸せそう」という雰囲気が、その方の周りにも伝播し、ささやかながら幸せな人が増える。これこそが、ハーバード大学の研究が示す波及効果と重なる部分ではないでしょうか。 茶室から広がるバタフライ効果 私が点前座で茶を点てる時、いつもこの思いを胸に抱いています。この狭い空間での出来事が、私の目に触れない遠くの誰かへと幸せを届けるきっかけになる。これを「バタフライ効果」と呼んでも良いかもしれません。 どうせなら、客が「良かった」と思える体験をしていただきたい。その体験が波紋のように広がり、社会全体にささやかな幸せを生み出していく──そんな希望を胸に、日々茶と向き合っています。

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...